魅力覚醒講座って怪しい!と思っているあなたに届けたくてついつい長文になりました。気になる方だけ読んでほしい。
人生どん底からの激変
無理をせず、ありのままの自分でいるだけで
夫に溺愛されて好きな時に、好きな場所で、好きな仕事ができる楽しい人生に♪
自分が思い描いていた理想以上の幸せな結婚生活を送っています。
私は現在、
●世界中を好きな時に旅しながら仕事ができる
(2023年はシンガポール、インドネシア(バリ島)、フランス、イギリス、イタリア、ドイツ、ベルギー、スペイン、オランダ、ギリシャ、エジプト、クロアチア、マルタの13カ国を巡りました)
●お金、時間、場所にとらわれない自由な友達が増えた
●自分ビジネスを再開し軌道に乗る
●ハイスペ夫と知り合って4ヶ月で結婚、結婚10年目もラブラブ
●好きな事をしているだけで夫に愛される
●夫と週に1度はホテルのレストランへ外食
●ドバイの5つ星ホテルに住んでいる
●ホテル住まいなので掃除はしない
●お部屋から海が見える最高の眺め
●夫にイライラしなくなった
と自分が思い描いていた理想を
大きく上回る生活を送っていますが、
元々は
・コミュ障で人見知り、友達を作るのが苦手
・結婚したいと思ってから8年間婚活に悩む
・付き合う彼氏はニート、サイコパスなどダメンズばかり
・100時間以上の残業で不眠症、円形脱毛症、酷いヘルペスで唇が腫れ上がったり。。
仕事も恋愛も何もかもうまくいかず、
私には幸せな未来はないと悲観していました。
左の写真は、サイコパスの彼氏と付き合い心身ともにダメージを受けていた頃。
今とは違って悲壮感が漂っています。
青森県の田んぼに囲まれた小さな村で育つ
私は青森県の田んぼに囲まれた小さな村で育ちました。
人口が少ないので、
幼稚園、小学校、中学校まで1クラスしかなかったので
9年間ずっとクラス替えなし。半数の人は同じ顔ぶれでした。
真面目で学校は1日も休まず通い、成績は常に1番か2番。
でも人に媚びない性格だった私は
むやみやたらと体罰を加えたり、
子供だからといって不本意な対応をする先生が許せずに
すぐに態度に表してしまうので先生にはあまり可愛がられず、
どちらかというと体罰の対象にされました。
子供の頃は理不尽な事があっても何も言い返すことができなかった。
一度目をつけられると何年もそれを引きづられ
生きづらい学校生活を過ごしました。
狭い世界、田舎暮らしが窮屈すぎて
早く都会に出たい!と思う毎日でした。
小学校6年生の頃には、
「大人になったら東京に行く!」
と親に宣言していました。
東京での挫折
中学校を卒業し、大好きだった絵の勉強ができる高校へ入学。
卒業後は東京の美術短期大学を選び、
ようやく青森を離れて東京で一人暮らしをすることに。
自分の希望する学校に推薦で入れたものの
専攻を自分の1番得意なものにしなかったため
周りのレベルについていけず、ここで初めて挫折を味わいました。
せっかく入った大学もほとんどの授業が面白く感じなかったものの
2年はあっという間に過ぎて、就職活動の時期に。
周りの友達は元々お金持ちで絵を描きたいからと就職はしない子や
親の会社で働く予定の子もいて
とまともに就職活動をしている子は8人中1人くらいでした。
そんな環境だったため
私も結局就職活動を積極的に行わず、1社だけ受けた会社に合格通知を頂いたのですが
そこで働くイメージが全く持てず、結局その会社には行きませんでした。
なんだか、ダメダメな生活でしたね。。
母親の余命宣告
短大卒業後、東京でバイト生活をして過ごしていた21歳のある日、
父親から突然電話がありました。
「お母さんが肺癌で、先生に余命3ヶ月って言われたよ」
頭が真っ白になりました。
おばあちゃん、おじいちゃんも健在で
家族の死なんて経験したことがないのに
1番最初が母親だなんて。。
誰よりも健康に気をつかっていて
田舎でほぼ自給自足みたいな生活を送っている母親が
もうすぐ死んじゃうなんて
全く実感が湧きませんでした。
3ヶ月と言われた命でも
入退院を繰り返し余命宣告から
6ヶ月は持ちましたが、
癌だということ
余命があとわずかだということは
最後まで本人に告げられませんでした。
私はまだ若く、
真っ向から母親の病気や死に
向かい合うことができませんでした。
病気は治るよっていう素振り、
いつもと変わらない母への対応をしてしまい、
今思うともっと優しく気遣えば良かったと後悔も。。
母の余命宣告を聞いてから
涙が枯れるほど泣きました。
辛そうな母親の姿を見ては
母親に気づかれないように隠れて泣いたりしていました。
母親の死
闘病生活はあっという間に終わりを告げました。
本人にとっては長い長い6ヶ月だったかもしれません。
私は東京で働いており、夜中に危篤だという連絡を受けました。
翌日行院に駆けつけた時には、息はあるものの
薬で眠っており、酸素マスクで覆われた顔からは
苦しさは感じられませんでした。
その日のうちに息をひき取った母。
死に目には会えましたが、最後に話すことはできませんでした。
一度泣いたら涙が止められなくなると思い、
母のお葬式の時には涙を流しませんでした。
母親のお葬式で泣かない私を見て
お坊さんや親戚の人たちは
冷たい娘だなと思っただろう。
面倒見が良く、優しかった母親が大好きでした。
死は誰にでも平等に訪れます。
それが、
’早いか、遅いかの違い’
と父親に言われて、
まだ46歳だった母親の死は早いけど、
確かにそうだな。
と妙に納得しました。
身近な人の死を経験してからは、
明日死んでも後悔しないように
やりたいと思ったことはすぐやろう
という考えを強く持つようになりました。
今でも、母と一緒に海外旅行したかったな、
と思う日があります。
そして、全然親孝行できなかったなあと。
人生の価値観を変える旅
母の四十九日が終わる前に
その当時付き合っていた彼氏と
アメリカ旅行へ行きました。
母親の余命宣告を受ける前に予約をしていた旅行だったのですが
おばあちゃんには、行くのを辞めたら?と言われました。
確かにまだ四十九日が終わる前だし・・・
一瞬キャンセルしようか迷いましたが
旅行に行くのを辞めても母親は喜ばない!私のやりたいことをやる
と決めて決行。
初めての海外旅行でグランドキャニオンの雄大な景色を見て大感動しました。
とりわけ、夕日の時間帯は元々赤土の岩肌が
より濃く燃えるような赤に変わり、視界一面、地平線まで広がりました。
刻々と変わるグランドキャニオンの表情が
今まで見たどんな景色より美しかったのを覚えています。
この度でアメリカの大自然のスケールの大きさに衝撃を受けたのです。
日本にもたくさん素敵な場所はありますが、
世界には想像できない景色がたくさんある。
もっともっと世界のいろんな景色を見たい。
この初めての海外旅行が、
旅に魅了される1番のきっかけとなりました。
ニート(ヒモ)彼氏のおかげで変わった条件
結婚願望が全くなかった私。
小さな頃から結婚はしない、
子供もいらないと思っていました。
テレビドラマ「東京ラブストーリー」の
リカみたいに東京でバリキャリとして働くのが夢でした。
27歳頃まで一緒に暮らしていた彼氏が
突然会社を辞めてニートになってしまい
私が家賃と食費を全て払っていました。
その頃私も会社を辞めて、新しい職種の企業(IT系)に転職。
アルバイト採用でまだ技術もない新人なので月のお給料は月15万円ほど。
家賃は9万円だったので光熱費等を除くとほとんど残らず
常にカツカツの生活を送っていました。
マジでバリキャリとは程遠い。。
お金がなさすぎて自動販売機の下に
小銭が落ちていないか確認するくらい貧乏でどん底な生活でした。
彼氏は全くお金を払う気配がなく
私が貸していた30万円以上のお金は
結局戻ってきませんでした。
月に一万円ずつ返す約束で一筆書いてもらったど全く効力なし。
まさに「お金は貸したら返ってこないものと思え」ですね。
そんなニートの彼氏ですが、
スタイル良くておしゃれでかっこいい。
他人にすごく優しいので人には好かれるタイプ。
結婚願望はないけど、この人なら結婚もアリかもと
4年ほど付き合い、ご両親にも会って
結婚の話も出ていましたが、
まさかの浮気発覚。。
お金はないわ、浮気症だわで最悪です。
さすがに我慢の限界で、お別れしました。
それまでは「お金」よりも
「見た目が自分のタイプか」で
付き合う相手を選んでいましたが、
この経験を教訓に、
幸せになるためには「お金」が絶対必要。
お金持ちと結婚したい!
自分より稼いでいない人は対象外!!
と付き合う条件がはっきりと変わりました。
結婚氷河期に突入
28歳になり、大企業のグループ会社に入社します。
30歳になると
周りの友達がどんどん結婚し出し、
赤ちゃんや子供を見る機会が増え
ふと、私も子供が欲しい!!
と母性本能が芽生えました。
子供を産むためには結婚しなければ!!と
ただの彼氏探しから、結婚相手探しが始まりました。
ここから長い長い婚活氷河期時代に突入します。
氷河期になってしまった原因は、
・自分が歳を取った事によって
周りの男性陣も結婚しだし、対象がどんどん減る。
・就職先の会社の8割が女性で男性が少ない。さらに男性の既婚率が高い。
・30代に入って飲みのお誘いがめっきり減った。
・付き合う人が増えるにつれて条件も増えていく。
20代の頃は会社内で付き合うことが多かったのですが、
なかなかいいお相手が社内にはおらず
このままでは結婚できないと焦り出し、
意を決して「結婚相談所」へ申し込みをしました。
結婚相談所のワナ?
結婚相談所もいろんなタイプのものがあると思いますが、
私が選んだのはかなり高額な入会金で
友達には反対されましたが、結局内緒で入ってみることに。
ニート彼氏で苦労した経験から
なるべく高学歴・高収入の人を希望していた私は
東大、早稲田、慶應卒の男性が多く在籍している
ことをウリにしている結婚相談所に申し込みました。
高学歴の人は、ちゃんとした大企業に勤めている率も高い、
大企業であればお給料もそこそこいいし
少なくともニートにはならないはずという思惑で。
その結婚相談所では
月に何回も数十名規模の婚活パーティーを開催していて、
自分が出たいパーティーに申し込むスタイルでした。
私も何度もパーティーには参加し
何十人という方とお話しましたが
お会いした中に東大、早稲田、慶應卒の方は
1人もいませんでした。笑
流石に詐欺かな?と思いましたが、
大手企業にお勤めしている方はいらっしゃっいました。
結局1年ほど在籍していたと思うのですが
ビビっとくる人はおらず
結局付き合うことすらありませんでした。
高額な勉強代でしたが、
どうしたらパーティーで男性に好印象を持ってもらえるかなど
得たものもあります!
その時には無駄だったかもと思うものも
後々自分の知識の糧になっている事はあるものです。
灯台下暗し
結婚相談所という外の世界を見て気づいたのですが、
自分の会社内で
東大、早稲田、慶應卒の方が多かった!
いるじゃん!めちゃくちゃ身近に!!
たまたま人伝に聞いたりして発覚。
意外と盲点。
まあ、わざわざ会社の人に、
出身大学どこですか?
って聞くことないですし、
自分の学歴を自分で自慢する人もなかなかいない。
灯台下暗し。。
学歴は関係ないとしても
高額な結婚相談所に入る前に
今一度自分の周りを見渡すのも大切です。
億男だけどサイコパス
30代で、何人かとお付き合いするのですが
自分がいいなーと思った人とは
なかなか結婚まで至らず、気持ちは焦るばかり。
中でも今の夫と付き合う前の彼氏は
年収1億以上稼ぐ方だったので
私もかなり前のめりでした。
出会って最初の頃は、
すごく優しかったし、私を姫のように扱ってくれたのですが
長く付き合うにつれて
様子が変わってきました。
その彼は、サイコパスでした。
サイコパスもレベルがあると思うのですが
精神的にはもちろんのこと
肉体的に人が傷ついていても共感できないタイプ。
軽めの例だと
雨が降っていて傘をさして歩道を歩いている時
人に当たった時点ですみませんって言いますよね。
自分の傘が人の顔にガッツリ当たって
痛そうにしていても振り向きもせずにせず
スタスタ歩いて行ったり。。
私は後ろを歩いていたのですが、
明らかに傘を当てに行っていたので恐怖を感じました。。
ヤバい例は、
私と付き合う前に彼氏がバイクと接触事故を起こした時の話。
彼氏の車に後ろからバイクが追突してしまい、
怪我して血を流しているその人に向かって
「お前が悪いんだから自分で救急車を呼んで来い」と言って
自分は無傷なのにも関わらず
公衆電話までその人に行かせたとか。
かなり他者に対する共感力ゼロなエピソードが多数。。
そんな話を最初の段階で聞いていたら
さすがに付き合っていなかった。
もちろん最初はそんな態度はなかったし、
結婚したいという思いが強すぎて
落ち着いて考えたら不審な事も見て見ぬふりをして
4年以上付き合ってしまいました。
「結婚願望」って恐ろしい。
私はもう37歳。
この人以上にお金持ちの人とはもう出会えないかも。
この人を逃したらもう結婚できないかも。
という呪縛にかかっていて
彼氏に嫌なことをされても
それを我慢して受け入れたりしていました。
自分よりも彼氏を上に置くようになって
彼氏の言うことに従っていたんです。
キツイ仕打ちを受けても
心を殺して耐える日々。
涙が枯れるほど泣いて
もうどうしたらいいかわからない、
母親がいたら相談したかった
と思うこともありました。
仲のいい友達にも
父親にも相談することができませんでした。。
そのころは人を信頼することができなかったんです。
私が結婚したいというのを逆手にとって
子供ができたら結婚すると言われたりも。
それでも結婚したい願望の方が勝ってしまって
ずるずる付き合いは続きました。
自分を大切扱えば嫌な現実は変化する
他の誰かに大切にされたいのであれば
まずは自分を大切に扱うこと。
ちゃんと自分の気持ちに従って
嫌なことを嫌とはっきり言えなかったのが
彼が私を大切に扱わなくなった
1番の原因だと気づきました。
このまま結婚したとしても
何かあった時にバイク事故の人のように
冷たくあしらわれるんじゃないか、
たとえ金銭的に困らない生活だったとしても
精神的にダメージを受けて
寿命が縮むんじゃないかと思いました。
冷静に考えるとどんどん彼との心の距離は離れ
私の中でも流石に限界だなと思い
別れを告げました。
別れを言った途端、彼氏の態度が一変。
4年以上付き合って、
隣の家に住んでいる彼の母親にも紹介しなかったのに
親にも紹介するし、私の親にも挨拶に行く、
今までの態度は改める、好きな人がいてもいいから
戻っておいでと
必死で引き止めようとして来ました。
でも私の中で既に気持ちが離れてしまっていたので
かかってくる電話も取らず、メールだけで別れを告げました。
彼氏や旦那さんがサイコパスやモラハラで悩んでいる人は
まず自分のことをちゃんと1番大切に扱っているか
自分を日々ちゃんと満たしているか考えてほしい。
自分のことを1番大切に思っていたら
自分のことを大切に扱わない人を相手に選ばなくなるはず。
サイコパスと付き合って得た教訓です。
運命の出会い
婚活も7年以上続き、もう37歳。
33歳から始めた趣味のゴルフにハマり、
結婚するならゴルフが好きな人がいいなと思い
ある日ゴルフ婚活パーティーに参加することに。
大きなゴルフ練習場を貸し切って、
男女合わせて160人以上参加する大規模なパーティーでした。
その頃、仕事量がどんどん増え
毎日深夜まで残業するほど残業時間も多く、
パーティー前日も帰りが深夜に。
週末で疲労がピークに達していたのもあり
パーティー当日見事に寝坊!
結構楽しみにしていたのに、やらかした!
寝坊したことで、
ほとんど行く気は失せていました。
もはや婚活はどうでも良く、
誘っていた友達に悪いので合流するために
1時間以上遅れてパーティーに参加しました。
会場ではくじ引きで打席が決まり、
女性が待っている打席に
男性が順に回ってくる流れでした。
遅刻さえしなければ10人以上の人とお話し
できるのですが、
なんせ大遅刻した私は
3人としかお話しできませんでした。笑
でも3人ともかっこよくてすごく感じがいいし、
3人中2人は私よりも年下だけど
年収は私よりかなり上。
3人とも結婚相手として充分すぎる!
(ちなみにここでは学歴を書く欄はありませんでした)
自分の条件に合った人と出会えた!
結婚相談所よりもいい確率なことに驚きました。
結果、その中の1人と何度か会い付き合うことに。
過度な残業で円形脱毛症に・・・
その頃、過度の残業のせいで健康体な私でも
円形脱毛症になったり、重度のヘルペスを患っていました。
仕事の内容はやり甲斐がありましたが、
3年くらいずっと会社を辞めたいと思いながらも勤めていました。
キャリアウーマンどころか
もう働きたくない!!と思うほど
心身ともに疲れ切っていました。
そして
会社を辞めると決意し、上司に申請した時は
もう嫌な仕事もせず、自由になれる!!
とワクワクして、辞めることに対する不安は全くありませんでした。
第二の人生の始まり
彼とは付き合って4ヶ月弱。
会社を辞めると決まってすぐに
突然、彼の海外転勤が決まりました。
彼から転勤の話を聞いた時
と聞いた時、
もうお別れかー、早かったな。
と思ったの束の間、
思いもかけない言葉が、
「もう働かなくていいよ、一緒に海外へ行こう。」
会社を辞めると決まった瞬間から
幸せでワクワクした気分でいたら
なんとプロポーズまでされました。
仕事も恋愛も全てが上手くいかず、
泣いてもがいていたのが嘘のようでした。
38歳、私の誕生日に晴れて入籍。
ここから始まる第二の人生!期待でいっぱいでした!!
アメリカ生活と悔しい思い
夫の転勤先は
アメリカ、ロサンゼルスでした。
私が21歳で初めて旅行した場所がロサンゼルス。
夫も初めての旅行先がアメリカだったと言うので
アメリカには何か縁のようなものを感じました。
でもまさか私が海外で暮らすことになるとは
想像もしていませんでした。
高校までの英語の授業はよかったですが
所詮丸暗記でいける教科なので
スピーキング力は0。
住んでから最初の頃は
挨拶ですら聞き取れませんでした。
(挨拶って「How are you?」だけじゃ無いのね。。)
聞き取れないことや自分が思っていることを
全然伝えられないことがすごく悔しくて涙を流すこともよくありました。
カメ並みだけど徐々に上達した英語
英語の勉強のため、ESLという18歳以上が無料で通える
語学学校に通う日々が続きましたが
英語の上達速度はカメ並みでした。
でも少しずつ英語が聴こえるようになったり
文章も書けるようになり、
友達と少し会話できるようになりました。
初期の頃に受けためちゃくちゃ早口な先生の授業で
単語を一つも拾えなかったのですが、
3年後にまたその先生の授業を取った時
ほぼ100パーセント聞き取りできていて
先生が面白い話しかしてなかったと分かった時は
本当に嬉しかった!
カメ並みだけど、コツコツ続けたらちゃんと成果は出るんだ。
アメリカでの辛い不妊治療
アメリカに移住して6ヶ月くらい経つ頃、
まだ子供ができないことが気に掛かり
夫に不妊治療の話を提案しました。
夫も子供が好きなようで子供ができるのを望んでいました。
もう38歳を過ぎていたので充分高齢出産です。
その頃は私も妊娠についての知識が全くなく、
35歳を過ぎると妊娠率が一気に下がることすら
知りませんでした。
最初は比較的近所にある
中国系の先生がやっているクリニックへ通いました。
なぜそこを選んだかというと
日本人女性の通訳の方がいたので。
そこではまず
人工授精からスタート。
人工授精3回で30万円ほどかかりました。
そして一度も着床せずでした。
先生の熱量も感じず転院することにしました。
この頃はまだ焦りもなく
まあ高齢だしこんなもんかな。
という感じでした。
次のクリニックは
ハリウッドスターも通う有名なところで
先生は3人いてみんなとてもいい先生でした。
ちょうど私の担当だった先生が、
女優の体外受精を成功させたというので
アメリカのニュース番組で取り上げられていました。
ハリウッドスターが通うくらいなので
最初のクリニックよりも高額な治療費が必要でした。
そこでは体外受精を試みましたが、
私が高齢のせいもありなかなかいい卵子が育たないことも多かったです。
グレードのいい受精卵を戻しても
着床すらせず、
自己注射で痛い思いをしながら
続ける不妊治療は本当に辛かったです。
生理が来るたびに泣いていたし、
夫も辛かったと思います。
私にはなんの取り柄もないし、
子供ができないことで、
自己肯定感も下がりました。
楽しいはずの結婚生活なのに、
泣いて過ごすことが多くなりました。
結局そのクリニックでも成功することはなく
一旦中断し、
少し期間を置いて3つ目のクリニックを訪れました。
体外受精をするもやはり失敗し、
私はもう41歳になっていました。
不妊治療を辞める決心
どうしてこんなに思い通りにならないんだろう。
日本ではまだ正式にOKになっていませんが、
アメリカでは卵子提供によって
子供を作るという方法も可能でした。
最終的にそこまで話が進んだのですが、
夫に相談すると
「私の卵子じゃなければ欲しくない」
というので体外受精まででストップ。
42歳には辛い不妊治療をやめる決心をしました。
本当に子供が欲しかったのか?
不妊治療中は、自分の努力ではどうすることもできない
現実を目の当たりにし、絶望する日々。
藁をもすがる思いで、
引き寄せの法則や量子力学を勉強し始めました。
今は、本当に子供が欲しかったかというと
そうではなかったように思います。
引き寄せの法則や量子力学でも、
ありありと理想の未来を想像することで
願望が実現すると言われています。
私は当時、自分に子供がいる状態
あまりリアルに想像できなかったんです。
体外受精のスケジュールよりも
旅行のスケジュールの方が気になっていたし。
ただ心配事としては
子供がいないことで、夫が離れてしまうのではないか
夫の両親から色々言われるのではないかということが
気がかりでしたが、
そんなことは全くありませんでした。
世界は自分が思うよりもずっと優しい。
不妊治療で得たもの
最終的に卵子提供受けるのであれば多額のお金が必要です。
卵子提供には夫が反対しているので
私が稼ごうと思い
何気なく始めていた物販を本格的に動かし始めました。
それが思いのほか順調にいき、
一日数時間の稼働時間で、
会社員時代に稼いでいた年収を上回る収益を得るようになっていました。
今でも物販は続けていて
夫の収入だけを当てにせず何かあったときに
自分ひとりでで稼げるスキルを身につけました。
アメリカでは5年間暮らしたのですが、
不妊治療という試練もありつつ
全体的には充実した生活を送りました。
日本での試練
日本へ戻り、また試練が訪れました。
アメリカの自由な働き方から一転し
日本企業で働く夫は
どんどん鬱(うつ)っぽくなっていきました。
会社のことをあまり話したがらないので
私もあまり話さないようにして、
会話が少なくなっていきました。
どんどん症状が悪化していき、
家で夫が勉強中に突然
「しねーーー!!」
と大声で叫んだり、どんどん壁を叩いたりするようになりました。
私に言っている訳ではないのですが。。
流石に怖い。
日本の狭いマンションなので
おそらく筒抜けだったと思います。
かなり大声で叫ぶので、ヒヤヒヤしました。
あまりにもひどいので、
病院に行くように言いました。
薬をもらって飲んだりしても、
なかなか改善せず
うつ病の難しさを痛感。
私は基本的に楽天的で
落ち込みづらい性格ですが
流石に気が滅入りました。
いつもどんよりしている家庭環境。
治るのか分からないうつ病との戦い。
本当にしんどかったです。
辛い試練の中での転機
不安定な状況は1年ほど続き、一度は離婚を考えたことも。。
そんな中、夫に2度目の海外赴任の辞令がおり、
ドバイへ転勤することに。
実はドバイには夫と旅行で行く計画を立てていました。
ドバイは夏の期間になると40度越えと暑過ぎて
観光的には厳しいのですが
ゴルフなどもお手頃価格でできるので
夏休みに行こうとしていたところ、この辞令。
現実創造が早すぎる。
今の生活が変わるきっかけができて
また2人で楽しく暮らせるかもしれないと期待が膨らみました。
小田桐あさぎさんとの出会い
ドバイ行きが決まってから
インスタなどネットでドバイの情報を集め始めました。
そんな中、見つけたのが
ドバイ在住、小田桐あさぎさんのインスタグラム
ド派手は赤髪にハイブランドで固めたファッション。
かなりイっちゃってるな〜
が最初の印象。
ネットで検索するとあさぎさんの
YouTubeチャンネルがあり、
ドバイに来てから、どんどんあさぎさんの面白トークにハマりよく見ていました。
中でもちゃん卒QAライブという
あさぎさんが視聴者のお悩みに応えるというコンテンツがあり、
あさぎさんのドンズバな返しに感動していました。
見た目ギラギラしているし、話す内容も尖っていますが
あさぎさんのアドバイスが本質的でとても参考になります。
そんなあさぎさんが
【魅力覚醒講座】
というのを近々開催することを知りました。
実を言うと、
申し込みをするのは、締め切りギリギリまで迷ったのですが
あさぎさんの話を聞いていると
なんだかワクワクして
これからの人生が楽しくなる気がして
自分も変われるかもしれない!
直感で申し込みボタンを押していました。
魅力覚醒講座を受けて断然人生が生きやすくなった!
小田桐あさぎさんの「魅力覚醒講座」を受けていくうちに
たくさんの仲間と触れ合い、
お互いに悩みを打ち明けあい
親友並みに深く話し合い
人を信頼するということを学んでいきます。
魅力覚醒講座内では
自分の考えをアウトプットする場があるので
共感した人同士がすごく仲良くなれるのです。
コミュ障の私ですら、
悩みを打ち明けていける安心・安全な環境。
これってなかなかないのでは。
また、人の悩みを聞くことで
勉強になることもたくさんありました。
もちろん、講座内であさぎさんに質問することもできます。
大人になってから
親友と呼べる友達ができることにも驚きました。
講座内で仲良くなった友達と
海外で一緒に旅したのもとてもいい思い出です。
↑マルタ島、バリ島、フランスとすべて海外旅行
リアル友達でもなかなか一緒に旅行に行く機会がないので
サクッと海外旅行を楽しめる友達が増え
海外の情報交換をしたり
イベントをしたりすることもあり
世界が広がりました。
また、講座内で知り合った仲間と
私が一旦停止していた
ビジネエスを再開し売上も順調に回復しました。
マインドの講座ですが、マインドを整えて
自分ビジネスを成功させている人もたくさんいますし、
婚活に悩んでいた人がすぐに結婚が決まるなど
たくさんの幸せな女性が増えています。
あさぎさんは見た目が派手でギラギラしているので
アサギストのパーティー写真などを見て
私には馴染めないのでは??
と思うかもしれませんが
今はキラキラしている人でも最初は顔出しすらしていなかったり、
意外と最初はみんな普通です。
今では3300名以上の講座生を輩出し
女性起業家、医師、教員、弁護士、大手企業の会社員、専業主婦
とさまざまな職業の方が受講されています。
魅力覚醒講座を受ける前の私は、
◎夫を心から信頼できない
◎自分に対して無力感を感じる
◎何に対してもやる気が起きない
◎夫のネガティブな発言に疲れる
◎自分のビジネスを休んでいて収入がない
◎旅行に行くときに夫に気を遣っている
◎食洗機があるのに手洗いしてしまう
◎友達が少ない
◎専業主婦であることに罪悪感がある
という状態でしたが、
◎夫や他人を心から信頼できるようになった
◎夫がたとえ浮気をしたとしても夫が幸せならいいと思えるようになった
◎何もしなくても夫に愛されていると自信がついた
◎夫の愛を素直に受け取れるようになった
◎旅行に行くとき夫のお小遣いを使っても罪悪感がなくなった
◎ネガティブ発言をする夫にイライラしなくなった
◎自分のビジネスを再開して稼げるようになった
◎やりたくないことを手放してやりたいことにフォーカスできるようになった
◎新しいことにチャレンジし収入源が増えた
◎一緒に海外旅行に行く友達が増えた
と金銭面だけでなく、人間関係も良くなり
心の幸福度が増しました。
マインドが変わって人生はずっと楽しくなりました。
これだけの変化がわずか1年ほどで起こり
人生を大きく変えたきっかけとなる魅力覚醒講座は
お値段以上の価値があるし
受けて良かったと心から思います!
また、母が亡くなってから
親孝行ができなかったことを後悔していましたが、
魅力覚醒講座の中で
小田桐あさぎさんから
「子供は3歳までに一生分の親孝行をする」
という話を聞き、
私が常に心の片隅で思っていた
親孝行できなかった
という思いが救われ
心が軽くなりました!
短期間で人生激変!小田桐あさぎさんの最後の魅力覚醒講座
あさぎさんは講座を通して
もっと自由で幸せに生きる女性を増やしたいという思いで溢れています!
あさぎさんが起業してからずっと続けてきた魅力覚醒講座ですが、
2016年から開講して以来、8年間で4400名の講座生、通称アサギストを排出してきました。
その魅力覚醒講座も2024年11月末に募集する21期生をもって最後となります。
魅力覚醒講座21期の募集中、
魅力覚醒講座に申し込んでみようかな?でも本当に自分が変われるか不安・・・
そんなあなたに!
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魅力覚醒講座は1人で取り組むよりも、困ったときにサポートがある方が効果倍増が期待できます🤗
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